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アダージョの文化
二つの盆踊りに触れて

柘植 洋三 2000.08.30
 朝日新聞が社説で「アダージョの文化を」(一九九五年十一月十三日) という記事を載せた事がある。印象に残ったので切り抜いておいた。
 「若者文化の特徴は、まずスピードだろう。いわゆる若者演劇の台詞は聞き取り不能なほど早く、まどろこしさは許されない。そして音の大きさも必要だ。ロックミュージックの増幅された音響に官能を揺さぶられノ。沈静ではなく高揚を目指し、落ち着きではなく、常に刺激的であろうとする。この高速高音文化についてしばし考えたい。刺激的ではなく、沈静型の復権を提唱したい。ノ」 
 今夏、この事に関係する二つの経験をした。
 八月末、混声合唱団のレッスンに向かう途中、実に禍々しくも『官能的』なものを見てしまった。自転車に乗った若い女の子なのだが、携帯電話を肩と頬で挟んで喋りながらかつ、色艶やかなゆかたを完璧にたくしあげて走り去ったのである。無論下着丸見えだ。かような部分は、秘められていてこそ胸ときめくものであるが、あれではもはやいにしえのブルーマーと化しているではないか。
 「あっ、今日は滝山祭りの日だ。」
 ふれんずフェスティバルのプログラムの作成などで忙しくしていて忘れていたことを思い出した。合唱のレッスン終了後、確かめたい事があって、『盆踊り』のメーンストリートとなっている滝山通りを通って帰った。
 まさに世紀末を歩いている気がした。『阿波踊り』を踊り終わった男女が、色紙を張り付けたような原色で着飾って歩いている。金髪にイヤリングをした若者、眼の回りに何色をも塗り付け、花魁のポックリのような上げ底靴を履いた女の子が、そこら中にたむろしている。10時も近いというのに凄い照明、耳に突き刺さる音量。
  大江健三郎氏が書いている。
 「私は、日本人の心性に、バブル期とその破裂を通じて壊れたものはある、と考えています。サブカルチュアの繁栄を含めて、都市文化はその崩壊を押しとどめえていない。その進行は次第に低年齢層に及んでいる、とも思います。」(二千五年五月二十五日朝日)
 幸い職場も近く、東久留米かいわいでのみ生活している私にとっては、まさに『刺激的な』風景だった。大江氏の言う、「低年齢層に及んでいる都市文化の崩壊」を目の当たりに見た思いだった。

 この日の一週間ほど前、木曽福島をのんびり旅してきた。往復ともに普通列車を利用した。中央線を各駅停車に乗るのは学生時代以来だから四十年ぶりだ。移り行く風景を眺めるもよし、本を読みながら一眠りするもよし、音楽を聞くもよし、素晴らしいものだった。ゆったりした時間の流れが感じられて心が休まる。
 壱日目は、宿に入る前に日本最大の天然ヒノキが保護されている赤沢記念休養林に行った。そこで出会った巨木と清流の魅力は圧倒的だった。いつもそうだが、良く手入れされている美しい森にはいると、蓄積された時間の重みを感じる。数百年の年輪は、移ろい来た時間を蓄積して豊かだ。数十メートルの高さに枝を広げ、それが連なって巨大な天涯をなす。静寂の底から魂を揺すぶるパイプオルガンの重低音が聞こえてくるような気がする。
 けがれのない清流に手を浸す。百年も千年も前から何事もなく流れているのであろう。それらは、メ人間の時間世界を越えた雄大な時間の世界モがある事を気付かせてくれる。
 ヘーゲルもマルクスも、
 「自然は人間の外にあるものであり、人間にとって自然は自分の外部にある対象だ」
といった。そうではない。
 「人間は自然界に君臨する王様だと、思い上がっていましたが、実は自然の一部に過ぎません。」(ミハイル・ゴルバチョフ)
 自然は凄い。そのおおきなふところのなかに、人間も動物も、目に見えない魂のようなものも、美しさも、がぎりない優しさも、なにもかも抱かれ、許容されている。
 島崎藤村の、この木曽谷を舞台にした『夜明け前』に、御禁制の森にはいって「お叱り」を受けた「小前」のものが役人におずおずと申し述べる一節がある。
 「畏れながら申し上げます。木曽はご承知の通りの山の中で御座います。こんな田畑も少ないような土地で御座います。お役人様の前ですが、山の林にでも縋るより外に、わたくしどもの立つ瀬は御座いません」
 そのように、山は深く険しく、優しくあった。
 宿にはいって、夕食後、仲居さんが、言った。
 「盆踊りが始まったで、よかったらいってみませんか」
 下駄履きで出かけた。
 それは想像していたものとは全く違うものだった。三十メートル四方ほどの役場前の広場で二十人ほどが輪になって踊っている。まず照明が暗い。真ん中に十本くらいのぼんぼり、ほとんどそれだけだ。それでも慣れてくると良く見えるようになってくる。
 やぐらがない。やぐらの上で太鼓をたたく人も居ない。声が良く響くので、マイクが使われているかと思ったがそうではなかった。私は、すぐさま踊りの輪の中に入った。
「木曽のナー 仲乗りさん 木曽の御嶽山はなんちゃらほい 夏でも寒いよいよいよい よいよいよいのよいよいよい」 
 「なんちゃらほい」までを順に一人が歌う。それ以後を全員が歌う。何番は誰が歌うという事がおおよそ決まっているのだろう。輪の反対側から見事な繋ぎで歌い出しがあった。その阿吽の呼吸には、『時間と空間』をどこまでも共有しようとする息づかいがあった。
 音響施設などいらなかった。木曽福島は、木曽路のなかでも最も谷が深いところで知られる。素晴らしく通る声が壮大な天然のホールに響いて、深々と魂に染み入る。
確か十何番まであった。急峻な谷にしがみつきながら、拝むように生きてきた人々の、それでも悠然とした心が伝わってくる。
 宿に帰って、老舗らしき歴史と文化の品々の中に、高校時代に読んだ『夜明け前』の書き出しを懐かしくみた。
 「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。」
 盆踊りの余韻の中で、それらをみながら思った。
 「耕す」(田返す)をも含意するカルチャー(文化)が、自然とのかかわりを離れて独走し始めると、アダージョな文化が薄れていくのだ。

 移動の車の中で、運転手さんに聞いてみた。
 「木曽ヒノキの町といの事ですが、人口は増えていますか。林業で生計をたてている人はどうですか。」
 「減っていますね。年寄りだけでは生きていけんでね。わしも十年前まで製材所にいたが、会社が三億円の借金をかかえてね。大きな製材所から先につぶれていきよる。天然物のヒノキは切り尽くしてね、外材や、新しい建築材料に負けてね。林業は、五十年から百年がサイクルやで、そんなに早く切り換えられんでね」
 アレグロの文化からアダージョな文化を守る事は容易な事ではない。
 一人一人の生き方を変えるという事なのだ。現在とは根本的に異なる生活様式に移行するという事だ。
 テクノロジーの発展のままに利便性や経済性を、果ては官能性を享受して突進してきた近現代の「文化」の総体を顧みる事、それを支えた思想や哲学にも逆光を当てて再構築することが急がれる。
了 
 


詩人 立原道造の足跡を訪ねて
(武藤さんより続編が投稿されましたので、あらためてひとつにまとめました。編集部) 

武藤  茂 2010.08.24
★その1
 24歳で夭折した孤高の詩人立原道造の、美しいが、どこか切ない抒情を漂わせた詩。
4行,4行,3行,3行の計14行から成る彼独特のソネット形式の詩からは、曲が付けられる以前にすでに音楽が響いていた。詩の起承転結は、音楽形式としてのソナタ形式を意識しており、一連の詩群にSONATINE(ソナチネ:小ソナタ)と命名している程である。
 私も青年期に盛んに彼の詩を読み、その世界にあこがれた。大中恩作曲の男声合唱曲「ひとり林に」を大学の合唱団で歌ったとき、高原の林の間を吹き抜ける爽やかな風のようなこの作品に心を洗われ、感動したことを思い出す。
 今回、この立原の詩に作曲された組曲「風のうたった歌」に取り組むにあたり、その音楽と詩の解釈を考えるために、私自身彼の足跡を、少し辿ってみようと思い立った。
 彼は、日本橋の荷造り材料(筵、箱など)を扱う裕福な商家の次男坊として生まれ、その後長男が早逝した為、若くしてその家督を継いでいる。学業は常に優秀であり中学、高校では主席を通し、やがて東京帝国大学建築学科に進む。小説家堀辰雄は中学、高校の先輩であった。
 彼は、短かった青年期に、数人の女性を恋したが、その恋の多くは成就しなかった。ただ一人、彼が就職(東京の石本建築設計)した職場のタイピストであった水戸部アサイとは、相思相愛の仲になったが。知り合ってから間もなく肺結核に倒れ、アサイの献身的な看病にも関わらず、中野区江古田の療養所で寂しく息を引き取った。
 彼の全作品を通して読んでみると、失恋による暗さから、徐々に明るく希望をうたったものに変わってきている、それは水戸部との恋愛の体験とは決して無縁ではないであろう。
 彼はその詩風からサナトリウム派などと揶揄されることもあるが、事実、小説家堀辰雄を師と仰ぎ、信濃追分にあった元脇本陣 油屋旅館に宿泊して交流していた。石本事務所に就職してからも、たびたび追分を訪れていたようだ。そうした交流から、堀の作風に影響されたのだろう、どこまでも繊細で清潔ではあるが、揺れ動く心そのままに、時折、暗い淵を覗かせるところなどが酷似している。堀は49歳まで生きたが、やはり立原と同様に肺結核を病み、追分宿に建てたばかりの自宅で亡くなっている。
 私は、ふと思い立った。多くの文人たちを惹き付けて止まなかった追分宿とは、一体何だったのか、実際にこの目で確かめてみようと思った。そして、7月30日、追分宿を訪ねた。
 
★その2 追分宿への夏の旅

右は、道造が残した連詩「夏の旅」の冒頭の一節である
そして これはまさに 信濃追分の情景を歌っている。
 彼の詩の中に現れる風景描写、山 花 落葉樹林 雲風 それらは殆ど、ここ追分宿のものが多い。
 小諸から、浅間山を左手に見て18号線(中仙道)を中軽井沢方面に向かって行く、旧追分宿の直前に分去れ(わかされ)と呼ばれるY字型の道路分岐点があり、そこには碑が立っている。
 ここは木曽から京都へ向かう中仙道と越後へ通じる北国街道の分岐点で、古来より 旅人同士が別れを惜しみ、涙とともに袂を分けて旅を続けた所であり、追分の由来もそこから来ている。
 追分宿に入ると、古くからの雰囲気を残した民家が残っている。二階に格子出窓を持つ遊郭風の造りは、当時  200人あまりの飯盛り女(公認の私娼)を抱え繁盛した宿場町の風情をしのばせる。
詩に出てくる馬頭観音の石碑も実在した。馬と歩む道中の安全を祈り、また道半ばで力尽きた馬の冥福を祈る目的で、人々は観音を祀ったのだ。
堀辰雄、室生犀星、そして立原が愛した元脇本陣の油屋旅館は、昭和12年に全焼してから道路の反対側に元の姿で再建されたが、2年半前に廃業し、今はひっそりと戸を閉ざしている。再建後も、道造と堀辰雄は滞在している。営業していれば、その部屋を見せてもらい、少しでも残った香りを嗅げただろうに、残念であった。しかし、外観から辛うじて当時の姿を想像することは出来た。
庭から2階を見上げ、火事の際に滞在していた道造は、あのような格子窓から、地元の鳶職に助けられたのだ、と

夏の旅

 氈@村はづれの歌

咲いているのは みやこぐさ と
指に摘んで
  光にすかして教えてくれた
右は越後へ行く北の道
左は木曽へ行く中仙道
私たちはきれいな雨あがりの夕方に ぼんやり空を眺めて佇んでいた
さうして 夕やけを背にして まっすぐと行けば
私の みすぼらしい故里の町
馬頭観世音の叢に 私たちは生まれてはじめて言葉をなくして立っていた

みやこ草

★その2-2

 油屋旅館のほぼ斜め前、道路の反対側に堀辰雄記念館がある。入口には旧本陣の立派な門が移設され、旅人を迎える。林に囲まれた小道は、薄暗く、涼しい風が吹き抜けていた。
やがて堀が晩年の2年間を過ごした実際の住居に着いた。信じられないほど簡素な小住宅である。浅間山側に広い障子窓があった。ほとんど起きられる状態ではなかったそうだが、きっと毎日 大好きな浅間を眺めて過ごしたに違いない。堀と道造は師弟関係にあり、道造の詩風は小説「風立ちぬ」や「美しい村」に大きく影響を受けている。しかし道造の晩年では、堀の世界からの脱却を目指し、新しい境地に飛翔しようとしていた。しかしそれは彼自身の死によって叶うことはなかった。
 もっともっと語りたいことはあるけれども、堀辰雄のことは本題ではないのでこれくらいにしておこう。
 追分の宿場道には近代化の波が押し寄せ、昔のままの風情は失われていると、土地の人は嘆く。仕方のないことだが、油屋の廃業も含め、もう少し保全の方法は無いものだろうか?道造や堀辰雄の時代は遠い昔になってしまったが、ここの風光はいつまでも残ってほしい、そう願う人々も多いのではないだろうか。
 真夏の陽ざしは厳しいけれど、空はあくまで秋のように高く澄み、すじ雲が綺麗にたなびいていた。日陰に立つと、吹き抜ける風は涼しく頬を撫で、道端には名も知らぬ美しい花が咲き、何処かでかっこうの鳴き声がした。この土地に立ち瞑目して想う、彼らも同じ風景を見、そして同じ風を感じていたのか、その世界に少しだけ近づけたような気がした。
 私の追分宿への夏の旅は終わった。
 

分去れ(右北国街道、左18号) 古い民家(つがる屋)
 
旧脇本陣油屋(廃業中) 馬頭観世音
 

ひ と 夏 の 経 験  

石川 頴男 2010.08.18
 それはこの前のお盆に親戚の法事と先祖の墓参りを兼ねて会津若松に帰省したときの出来ごとです。13日(8月)の法事のときに甥の折笠から声をかけられ
「ブラスバンドとの合同演奏会に合唱団の一員として出演してくれませんか、明日14日にゲネプロ・15日が本番です。楽譜はこれです。詳しくは明日のゲネプロの時に説明します」
とのことなので
「君も出るならいいよ」
と軽いのりでOKを出したのが苦労の始まりでした。
吹奏楽団ワタルバンド 第三回定期演奏会というコンサ−トでプロと一般混合の約60人のものすごく上手いブラスバンドに35人の混声合唱団が加わった約100人の大編成で、この合唱団がとてつもなくレベルが高く、それも道理で男声16人は全員会津高校合唱部のOBで平均年齢は32〜3歳、カンタス・アニュメやお江戸コラリアーズ、会津混声などの現役がぞろぞろ、女声19人は“会津混声”や“福島県庁きびたき”などで活躍中の現役ぞろい…。
みんなは早目に譜読みに入っているので余裕があるけど私はいきなりゲネプロ参加でしかも初見、そして演奏曲が難しくやたら長い。ブラスバンド主体の演奏会なので合唱入りは3曲なんだけど渡された譜面は楽器の部分は省略されているのでコーラスの入りのきっかけが解りにくく物凄い苦労でした。
会場は福島県でも1〜2を争う会津風雅堂で1200の席はほぼ満席、驚いたのは市の文化祭参加事業ということもあってか入場無料。我々もお弁当支給のみでギャラ無しでした。
 そうそう肝心な曲目は 映画『プライベート・ライアン』より賛歌、映画『タイタニック』スペシャルハイライト、そしてプロ女声歌手のたかはし智秋が歌う『TONARI NI…』のバックコーラスの3曲。
 私が話たかったことは30歳台のバリバリに上手い連中に挟まれて歌うこと の心地よさといったら何と表現すべきか言葉が見つかりません。服装は上が白の長袖ワイシャツ、下が黒ズボン、黒靴ですが私は法事があった為偶然にも揃っていましたのでセーフでした。このスタイルで若者達と一緒にステージの上でキチッと長い時間立ちつくす喜び、さながらグリークラブに戻ったかのような錯覚に陥った感がありました。
 まさに最近ではあじわったこともないような【至福のひと時】でした。
以上 

詩人 立原道造の足跡を訪ねて その1  

武藤  茂 2010.08.08
 24歳で夭折した孤高の詩人立原道造の、美しいが、どこか切ない抒情を漂わせた詩。
4行,4行,3行,3行の計14行から成る彼独特のソネット形式の詩からは、曲が付けられる以前にすでに音楽が響いていた。詩の起承転結は、音楽形式としてのソナタ形式を意識しており、一連の詩群にSONATINE(ソナチネ:小ソナタ)と命名している程である。
 私も青年期に盛んに彼の詩を読み、その世界にあこがれた。大中恩作曲の男声合唱曲「ひとり林に」を大学の合唱団で歌ったとき、高原の林の間を吹き抜ける爽やかな風のようなこの作品に心を洗われ、感動したことを思い出す。
 今回、この立原の詩に作曲された組曲「風のうたった歌」に取り組むにあたり、その音楽と詩の解釈を考えるために、私自身彼の足跡を、少し辿ってみようと思い立った。
 彼は、日本橋の荷造り材料(筵、箱など)を扱う裕福な商家の次男坊として生まれ、その後長男が早逝した為、若くしてその家督を継いでいる。学業は常に優秀であり中学、高校では主席を通し、やがて東京帝国大学建築学科に進む。小説家堀辰雄は中学、高校の先輩であった。
 彼は、短かった青年期に、数人の女性を恋したが、その恋の多くは成就しなかった。ただ一人、彼が就職(東京の石本建築設計)した職場のタイピストであった水戸部アサイとは、相思相愛の仲になったが。知り合ってから間もなく肺結核に倒れ、アサイの献身的な看病にも関わらず、中野区江古田の療養所で寂しく息を引き取った。
 彼の全作品を通して読んでみると、失恋による暗さから、徐々に明るく希望をうたったものに変わってきている、それは水戸部との恋愛の体験とは決して無縁ではないであろう。
 彼はその詩風からサナトリウム派などと揶揄されることもあるが、事実、小説家堀辰雄を師と仰ぎ、信濃追分にあった元脇本陣 油屋旅館に宿泊して交流していた。石本事務所に就職してからも、たびたび追分を訪れていたようだ。そうした交流から、堀の作風に影響されたのだろう、どこまでも繊細で清潔ではあるが、揺れ動く心そのままに、時折、暗い淵を覗かせるところなどが酷似している。堀は49歳まで生きたが、やはり立原と同様に肺結核を病み、追分宿に建てたばかりの自宅で亡くなっている。
 私は、ふと思い立った。多くの文人たちを惹き付けて止まなかった追分宿とは、一体何だったのか、実際にこの目で確かめてみようと思った。そして、7月30日、追分宿を訪ねた。(続く)